いわきゆかりの刀

磐城の刀匠

磐城の刀剣の歴史がはっきりしているのは、慶長七年(1602年)鳥居氏が岩城に入封して平藩ができてからです。その入封の折に鳥居氏に従ってきた堀川国広の弟 国安が平鍛冶町で鍛錬製作したのが始まりです。
いわき市史では、江戸時代磐城の刀匠は23名記されていますが、現在、磐城で確認されている刀剣は、「鈴木加賀守貞則初二代」、「根本和泉守藤原国虎初二代」、国虎の弟である「国隆」、「尚行・忠興」合作銘、国虎の子孫と思われる「和泉守孫吉田国光」、同名の「吉田国光」、「雲龍子定興」、「泉々子行守」、「藤島友重」及び最近確認された「磐城住藤原正口」(口は錆のため確認できない)と10名ほどです。
この内代表格は、「鈴木加賀守貞則」と「根本和泉守藤原国虎」の二人です。

1 鈴木加賀守貞則

京都の堀川で作刀に励んでいた貞則は平藩主内藤義泰(左京太夫)の招聘を受けて延宝二年(1674年)に七人扶持玄米二十石の禄高で平藩のお抱え鍛冶となり延宝八年亡くなるまでの六年間磐城平らで作刀し、根本庄太夫こと国虎の指導に当たりました。貞則は刀銘の守と則の字に摂津打、京都打、磐城打ちの特徴があります。

2 根本和泉守藤原国虎

平鍛冶町に生まれた純粋の平っ子で、来平した貞則に師事し貞の字を頂戴し刀銘「貞平」を名乗り延宝四年(1676年)正月に平藩お抱え刀匠になりました。同年九月に京都に赴き二代伊賀守金道に入門して、六年修行の後、平藩主の号、風虎の虎の字を拝領して刀銘を「国虎」と名乗りました。初代の初期作には「東奥磐城住貞平」、「根本和泉守藤原国虎」などと銘し、表裏共に楷書に切る刀が多いです。草書銘については、「元禄九年丙(ひのえね)八月日」他数刀経眼されます。
貞享元年(1684年)から元禄九年(1696年)まで「虎」の字の第5・第6画を「七」に切り、元禄九年九月以降から「虎」の字の第5・第6画を「士」に切っています。
正徳三年(1713年)56歳で生涯を閉じる。没後310年になります。
国虎は、平鍛冶町で江戸時代の武士社会に大いに名を馳せた刀匠の一人となりました。よって磐城の刀剣は江戸ではなく、京都、大阪の流れを伝承してきました。
安藤藩政に活躍した吉田国光も同じ流れを汲む平っ子です。